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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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 この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこたちのみこと 日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのである。

 しかときけこのもとなるとゆうのハな
 くにとこたちにをもたりさまや    一六 12

 思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをなされた。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。

 月日にわせかいぢううをみハたせど
 もとはじまりをしりたものなし    一三 30

 このもとをどふぞせかいへをしえたさ
 そこで月日があらわれてゞた     一三 31

 親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えようとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようとの、元初りの約束に基く。

 にんけんをはじめだしたるやしきなり
 そのいんねんであまくたりたで     四 55

 このよふをはぢめだしたるやしきなり
 にんけんはじめもとのをやなり     六 55

 月日よりそれをみすましあまくだり
 なにかよろづをしらしたいから     六 56

(天理教教典第三章 元の理 より)
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『元の理』〔3〕

 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、かたまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

 月日よりたん/\心つくしきり
 そのゆへなるのにんけんである     六 88

 このよふのしんぢつの神月日なり
 あとなるわみなどふくなるそや     六 50

 にんけんをはぢめよふとてたん/\と
 よせてつこふたこれに神なを      六 51

(天理教教典第三章 元の理 より)
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されることとなつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみことは、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべてを産みおろされた。
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護により、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これを産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。
 その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いずれ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠された。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。

(天理教教典第三章 元の理 より)
 親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、この世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によく了解させようとて、元初りの真実を明かされた。
 この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。
 そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみとが混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一すじ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つつたなら、宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせようと約束し、承知をさせて貰い受けられた。
 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、これ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定められた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐつなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみこと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこととの神名を授けられた。

(天理教教典第三章 元の理 より)
 しかるに、この親心を悟らず、天地を無視し、己が力を過信して、我ままな心を遣い、得手勝手な行をしているのは、万一切を支配し、総てを見ぬき見透されている親神の眼から見れば、あたかも独り歩きする幼児のようで、これほど危いことはない。

 どのよふなくどきはなしをするのもな
 たすけたいとの一ぢよばかりで     七 26

 一れつのむねのうちよりしんぢつに
 はやくわかりた事であるなら      七 27

 それからハ月日よろづのしはいする
 なにかよろづのたすけするぞや     七 28

 親神は、これをあわれと思召し、種々言葉を尽して、一れつたすけの限りない親心を明かし、よろづいさいの真実を教えて、自由自在の珍しい守護を見せられる。

 月日にハせかいぢううハみなわが子
 かハいいゝばいこれが一ちよ     一七 16

 親神は、人間の実の親にています。親神は、ただ一すじに、一れつの子供に陽気ぐらしをさせたいと望ませられ、教祖をやしろとして表に現れ、元初りのいんねんあるぢばにおいて、たすけ一条の道を啓かれた。

 ぢばは、天理王命の神名を授けられたところ、その理を以て、教祖は、存命のまま、永久にここに留り、一れつを守護されている。

 どのよふなたすけするのもしんちつの
 をやがいるからみなひきうける     七 101

 実に、天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであつて、陽気ぐらしへのたすけ一条の道は、この理をうけて、初めて成就される。

 あしきをはらうてたすけたまへ
 てんりわうのみこと

(天理教教典第四章 天理王命 より)
 たん/\となに事にてもこのよふわ
 神のからだやしやんしてみよ   三 40・ 135

 この世は、親神の身体であつて、世界は、その隅々にいたるまで、親神の恵に充ちている。そして、その恵は、或は、これを火・水・風に現して、目のあたりに示し、又、眼にこそ見えぬが、厳然たる天理として、この世を守護されている。即ち、有りとあらゆるものの生命の源であり、一切現象の元である。
 実に、この世は、理ぜめの世界であつて、一分のすきもなく、いささかの遺漏もない。天地自然の間に行われる法則といわず、人間社会における秩序といわず、悉く、奇しくも妙なる親神の守護ならぬはない。

 このせかい一れつみゑる月日なら
 とこの事でもしらぬ事なし       八 51

 月日よりみなそれ/\とみさだめて
 善とあくとをみハけするぞや      八 52

 親神は、人の心はもとより、総てを見ぬき見透し、善悪共に見分けて、思召のままに守護されている。

 にんけんのわが子をもうもをなぢ事
 こわきあふなきみちをあんぢる     七  9

 それしらすみな一れハめへ/\に
 みなうゝかりとくらしいるなり     七 10

 このせかいなにかよろづを一れつに
 月日しはいをするとをもゑよ      七 11

 しかも、親神は、どこまでも、一れつ子供を愛撫される親にています。

(天理教教典第四章 天理王命 より)
 親神は、元初りに当り、親しく、道具、雛型に入り込み、十全の守護をもつて、この世人間を造り、恆にかわることなく、身の内一切を貸して、その自由を守護し、又、生活の資料として、立毛をはじめとし、万一切を恵まれている。
 その守護の理は、これに、神名を配して、説きわけられている。

 くにとこたちのみこと 人間身の内の眼うるおい、世界では水の守護の理。

 をもたりのみこと 人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理。

 くにさづちのみこと 人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界では万つなぎの守護の理。

 月よみのみこと 人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では万つっぱりの守護の理。

 くもよみのみこと 人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理。

 かしこねのみこと 人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理。

 たいしよく天のみこと 出産の時、親と子の胎縁を切り、出直の時、息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理。

 をふとのべのみこと 出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、世界では引き出し一切の守護の理。

 いざなぎのみこと 男雛型・種の理。

 いざなみのみこと 女雛型・苗代の理。


 即ち、親神天理王命の、この十全の守護によつて、人間をはじめとし、万物は、皆、その生成を遂げている。

(天理教教典第四章 天理王命 より)
 親神を、天理王命とたたえて祈念し奉る。
 紋型ないところから、人間世界を造り、永遠にかわることなく、万物に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神・実の神にています。

 このよふのにんけんはじめもとの神
 たれもしりたるものハあるまい     三 15

 どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ
 それがたん/\さかんなるぞや     三 16

 親神は、人間世界の根本にていまし、この世を創められたばかりでなく、この世の有りとあらゆるもの、悉く、その守護によらぬものとてはない。しかも、その自由の守護の程は、眼に、身に、心に、ありありと、感じることが出来る。まことに、元の神・実の神にています。
 即ち、天では月日と現れ、さやけくも温かい光をもつて、余すくまなく、一れつにこの世を照らされる。

 このよふのぢいと天とハぢつのをや
 それよりでけたにんけんである    一〇 54

 人は、天地の間に生を享け、至妙な自然の調和の中に生存している。遍く月日の光を身に頂いているように、隔てなく天地の恵に浴している。天地は月日の理で、人は、天地抱き合せの、親神の懐に抱かれて、限りない慈しみのまにまに生活している。

 このよふのしんぢつのをや月日なり
 なにかよろづのしゆこするぞや     六 102

(天理教教典第四章 天理王命 より)
 その年も暮れ、明けて明治二十年陰暦正月二十五日にいたつて、気分甚く勝れられず、どうしたことかと思召を伺えば、

 さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそうか、扉を閉まりて地を均らそうか/\。

との仰せであつた。真意を解しかねた一同が、扉を開く方が陽気でよかろうとの思いから、扉を開いてろくぢにならし下されたいと申上げると、

 一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。

と仰せられた。

 明くれば二十六日、教を開かれた元一日の縁の日であり、しかも、つとめを急き込まれることが、極めて急であるので、今は、最早や躊躇している場合でないと、一同深く心に決して、万一に備える準備を整え、常になく鳴物までもいれて、つとめにかかつた。
 教祖は、休息所にやすまれながら、この陽気なかぐらづとめの音を聞かれ、いとも満足げに見うけられたが、北枕で西向のまま、静かに眠りにはいられた。齢、正に九十歳。
 教祖は、現身の寿命を二十五年縮めて、姿をかくされたが、魂は永久に元のやしきに留り、存命のまま、一れつ子供の成人を守護されている。

 にんけんをはじめたをやがも一にん
 どこにあるならたつねいてみよ     八 75

(天理教教典第五章 ひながた より)
 かくて過ぎゆくうちに、明治十九年陰暦十二月八日、教祖の身に異状がうかがわれた。この時、「これは世界の動くしるしや」と仰せになつたが、人々は、どうした親神の思召であろうかと、憂慮のうちに種々と協議を重ね、心の練合いに日を過した。そして、一同の協議に上つた問題で、思案に余る困難な事情を悉く披瀝して、十数度に亙り、繰り返し繰り返し、押しての願を以て理を伺つた。これに対して示された思召は、常に一貫して、たすけづとめの急き込みで、

 さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。

と、厳しい言葉で、のつぴきならぬ重大時機の迫つている事を暗示された。
そして又、

 心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。

と、己が身上を台として、一同の決心を促し、

 さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは火、水、風。

 さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。

とて、胸のおき処を諭された。
 かくも明確に思召を承りながら、直につとめにとりかかれなかつたのは、徹し切れない人間心のはかなさとはいえ、教祖の身にふりかかる御苦労を、気遣うたからである。

(天理教教典第五章 ひながた より)


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