忍者ブログ
僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
[200] [201] [202] [203] [204] [205] [206] [207] [208] [209] [210]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 そして、何人にも親しみ易く、覚え易いようにと、歌によせてものされたばかりでなく、屡々、譬喩を用いて理を説かれたのも、深い親神の思召を うなずき易く、理解し易いように、との親心からである。即ち、

 このさきハみちにたとへてはなしする
 どこの事ともさらにゆハんで      一 46

 やまさかやいばらぐろふもがけみちも
 つるぎのなかもとふりぬけたら     一 47

 まだみへるひのなかもありふちなかも
 それをこしたらほそいみちあり     一 48

と、神一条の道を進む者の道すがらを、山坂や、茨の畔などにたとえて、この道は、一時はいかに難渋なものであろうとも、一すじに親神にもたれて通り切るならば、段々、道は開けて、細道となり、遂には、たのもしい往還道に出られると、希望と楽しみとを与えて、励まされた。そして、自ら真先にかかる中を勇んで通り、陽気ぐらしのひながたを示された。

(天理教教典第一章 おやさま より)
PR
 更に、教祖は、

 このよふハりいでせめたるせかいなり
 なにかよろづを歌のりでせめ      一 21
 
 せめるとててざしするでハないほどに
 くちでもゆハんふでさきのせめ     一 22

 なにもかもちがハん事ハよけれども
 ちがいあるなら歌でしらする      一 23

とて、親神の思召を伝えられ、

 だん/\とふてにしらしてあるほどに
 はやく心にさとりとるよふ       四 72

と、後々繰り返し繰り返し思案させるよう、心を配られた。この事は、後日、
 これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた。(明治三七・八・二三)

と仰せになつたように、おふでさきは、耳に聽くだけでは、とかく忘れがちになり易い人々の上を思い、筆に誌して知らされた親神の教である。

(天理教教典第一章 おやさま より)
 教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違つた人と罵つた。
 かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかつたとはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得させずしては、いつまでも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めない。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々の身にもなつて、説き聽かせ、或は筆に誌し、又は、親神の自由自在の働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導かれた。
 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、親神が教祖をやしろとして、じきじき表に現れている証拠として、よろづたすけの道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。

(天理教教典第一章 おやさま より)
「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けたい。」

とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の言葉である。
 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退したが、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。
 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。

 よろつよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから     一  1

 そのはづやといてきかした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや     一  2

 このたびハ神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする     一  3

 世界中の人間は、我が身思案に頼つて、心の闇路にさまようている。
それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これをあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その胸のうちを、いさい説き聽かされる。

 いまなるの月日のをもう事なるわ
 くちわにんけん心月日や       一二 67

 しかときけくちハ月日がみなかりて
 心ハ月日みなかしている       一二 68

(天理教教典第一章 おやさま より)
 かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。その日々は、人の眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこそ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くことが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。

 誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程と言う。(明治二十一・六・二)

 誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

 しんちつに心にまことあるならば
 どんなたすけもちがう事なし     一三 71

 誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが一つの理。(明治二三・四・一七)

 自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることなく、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。そこに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじいという一つの理が治り、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多くの人々の心の躍動を呼び起す。

 だん/\になにかの事もみへてくる
 いかなるみちもみなたのしめよ     四 22

(理教教典第八章 道すがら より)
 いまゝでハせかいぢううハ一れつに
 めゑ/\しやんをしてわいれども   一二 89

 なさけないとのよにしやんしたとても
 人をたすける心ないので       一二 90

 これからハ月日たのみや一れつわ
 心しいかりいれかゑてくれ      一二 91

 この心どふゆう事であるならば
 せかいたすける一ちよばかりを    一二 92

 この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見ては、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、たすかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶け合いの念から、人の苦しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為となつてあらわれる。

 このさきハせかいぢううハ一れつに
 よろづたがいにたすけするなら    一二 93

 月日にもその心をばうけとりて
 どんなたすけもするとをもゑよ    一二 94

(天理教教典第八章 道すがら より)
『道すがら』〔4〕

 ふうふそろうてひのきしん
  これがだいゝちものだねや  一一下り目 2

 親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そのむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

 いつ/\までもつちもちや
 まだあるならバわしもゆこ   一一下り目 5

 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここに、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそのままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。
 かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、それを待ちわびておられる。

(天理教教典第八章 道すがら より)
 ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結ぶ肥となる。

 みれバせかいがだん/\と
 もつこになうてひのきしん   一一下り目 3

 なにかめづらしつちもちや
 これがきしんとなるならバ   一一下り目 7

 少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきしんをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんになる。これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れぬ味がわかる。
 ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態である。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。
 ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為である。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

(天理教教典第八章 道すがら より)
 たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつつ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。これを、「節から芽が出る」と諭される。
 日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

 なんでもこれからひとすぢに
 かみにもたれてゆきまする    三下り目 7

 やむほどつらいことハない
 わしもこれからひのきしん    三下り目 8

 身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

 よくをわすれてひのきしん
 これがだいゝちこえとなる   一一下り目 4

(天理教教典第八章 道すがら より)
 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもついたなら、ものの観方が変つてくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られて来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではない。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕には暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さずに、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。この心の治め方をたんのうと教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかかるいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じてくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消される。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。

(天理教教典第八章 道すがら より)


忍者ブログ [PR]
最新コメント
プロフィール
HN:
ひろ
性別:
非公開
フリーエリア