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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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 たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたすけて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐらしの境地である。
 親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人類究極の目的である。

 いつまでしん/\したとても
 やうきづくめであるほどに    五下り目 5

 明るく勇んだ心、それは陽気な心である。この陽気な心で日々を送るところに、真の幸福があり、生き甲斐がある。いか程長く道をたどつても、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ。親神の守護のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活すのが、人の世のこの上ない味である。閉された心の窓を開き、遍き親神の光を身に受ける時、自ら暗い迷いの雲は晴れて、明るい喜びの中に立つ。陽気ぐらしとは楽しみづくめの生活である。
 陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

 皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(明治三〇・一二・一一)

(天理教教典第十章 陽気ぐらし より)
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 即ち、さづけは、親神が一名一人の心の真実を見定めて、たすけ一条のために渡される、こうのうの理である。人々が、授かつたその日の心を生涯の理に治めて、陽気普請のよふぼくとなり、天の理を取り次がせて頂くところ、親神は、願う心の誠真実を受け取り、自由自在の守護をもつて、いかなる難病をもたすけられる。さづけの理は、たすけ一条を誓う一日の日の真心に授けられる、生涯末代の宝であつて、この理をうけて、親神のよふぼくの馳せ巡るところ、広い世界に不思議なたすけは相ついで現れる。
 まことに、つとめとさづけとは、親神が、世界一れつに、陽気ぐらしをさせてやりたい、との切なる親心によつて教えられた、たすけ一条の道である。これによつて、病の根は切れ、あしきは祓われて、世界は陽気によみがえる。
 かくて、世界人類は、親神の篤き守護をたたえて、心ますます勇み、親神は、又、これを受けて、恵は、いよいよ深く、ここに、神人は共に和楽して、陽気溢れる世界が、この地上に実現される。

 あしきをはらうてたすけせきこむ
 いちれつすましてかんろだい

(天理教教典第二章 たすけ一条の道 より)
 人々の心が澄みきつて、真実の心となつた暁には、たすけづとめによつて、甘露を授けられる。これを頂けば、人は、よく百十五歳の定命を保ち、なお、心次第によつては、いつまでも生きさせてやろうと教えられる。

 このつとめなにの事やとをもている
 せかいをさめてたすけばかりを     四 93

 はや/\と心そろをてしいかりと
 つとめするならせかいをさまる    一四 92

 このつとめは、人間個々の身上や事情に限らず、更に、豊かな稔りや平和の栄えなど、広く世界の上に、親神の恵を及ぼすつとめである。
 ここに、恵は遍く一れつに及び、人類は、ひとしく親神の子として、兄弟姉妹であることに目覚め、互に立て合い扶け合うて、世界は、一つ心の陽気ぐらしの世と立て替る。
 親神は、更に又、いき・てをどりのさづけによつて、身上たすけの道を教えられた。

 このさきハなんほむつかしやまいても
 いきとてをどりみなたすけるで    一二 50

 どのよふなむつかしくなるやまいでも
 これなをらんとゆうでないぞや    一二 51

(天理教教典第二章 たすけ一条の道 より)
 されば、よふきづとめは、又、たすけづとめとも教えられ、いかなる願もかなえられるつとめである。

 たすけでもあしきなをするまてやない
 めづらしたすけをもているから    一七 52

 このたすけどふゆう事にをもうかな
 やますしなすによハりなきよに    一七 53

 たすけづとめは、ただ、身上のさわりや、災難や、苦悩をたすけるつとめであるばかりでなく、進んでは、病まず、死なず、弱らない、珍しい守護をなされるつとめである。

 しんぢつの心しだいのこのたすけ
 やますしなずによハりなきよふ     三 99

 このたすけ百十五才ぢよみよと
 さだめつけたい神の一ぢよ       三 100

 そのゝちハやまずしなすによハらすに
 心したいにいつまでもいよ       四 37

 またさきハねんけんたちた事ならば
 としをよるめハさらにないぞや     四 38

(天理教教典第二章 たすけ一条の道 より)
 つとめ人衆が、親神にもたれ、呼吸を合せてつとめる時、その心は、自と溶け合うて陽気になり、親神の心と一つとなる。この一手一つに勇む心を受け取つて、親神もまた勇まれ、神人和楽の陽気がここに漲る。
 またさきのよふきづとめをまちかねる
 なんの事ならかぐらつとめや      四 29

 かぐらづとめは、又、よふきづとめとも仰せられる。まことに、よふきづとめは、親神の思召さながらの陽気をたたえて、その成就を祈願するつとめである。

 どのよふなたすけするのもみなつとめ
 月日ゆうよにたしかするなら      七 83

 しんぢつの心あるなら月日にも
 しかとうけやいたすけするぞや     七 84

 つとめ人衆が、思召通りに陽気につとめる時、親神は、その真心を受け取つて、自由自在の守護を現される。

 このつとめせかいぢううのたすけみち
 をしでもものをゆハす事なり      四 91

 にち/\にはやくつとめをせきこめよ
 いかなるなんもみなのがれるで    一〇 19

 とのよふなむつかしくなるやまいでも
 つとめ一ぢよてみなたすかるで    一〇 20

(天理教教典第二章 たすけ一条の道 より)
 かんろだいとは、人間宿し込みの元なるぢばに、その証拠としてすえる台で、人間の創造と、その成人の理とを現して形造り、人間世界の本元と、その窮りない発展とを意味する。

 しんぢつのつとめの人ぢう十人の
 心を神がうけとりたなら        六 18

 それからハどのよな事もたん/\と
 神のをもわくみなときゝかす      六 19

 にち/\に神の心わせゑたとて
 人ぢう十人そろいなけねば       六 20

 このつとめは、又、かぐらづとめとも教えられ、親神の創造の理をかたどり、選ばれた十人のつとめ人衆が、夫々、面をつけ、歌に調子を合せて、奏でる九つの鳴物の調べに心を揃え、親神の守護の理を手振にあらわしてつとめる。実に、かぐらづとめは、人間創造の元を慕うて、その喜びを今に復えし、親神の豊かな恵をたたえ、心を一つに合せて、その守護を祈念するつとめである。

 みなそろてはやくつとめをするならバ
 そばがいさめバ神もいさむる      一 11

(天理教教典第二章 たすけ一条の道 より)
 月日にハせかいぢうゝハみなわが子
 たすけたいとの心ばかりで       八  4

 親神は、一れつの人間に、陽気ぐらしをさせたいとの親心から、教祖をやしろとして表に現れ、よろづいさいの真実を明かして、珍しいたすけ一条の道を教えられた。

 つとめてもほかの事とわをもうなよ
 たすけたいのが一ちよばかりで    一六 65

 この親心から、よろづたすけの道として教えられたのが、つとめ一条である。

 このよふをはじめかけたもをなぢ事
 めづらし事をしてみせるでな      六  7

 このよふをはじめてからにないつとめ
 またはじめかけたしかをさめる     六  8

 このつとめは、親神が、紋型ないところから、人間世界を創めた元初りの珍しい働きを、この度は、たすけ一条の上に現そうとて、教えられたつとめである。即ち、これによつて、この世は、思召そのままの陽気な世界に立て替つてくる。

 つとめでもどふゆうつとめするならば
 かんろふだいのつとめいちゞよ    一〇 21

 このつとめは、かんろだいをしんとして行う。

 にんけんをはじめかけたるしよこふに
 かんろふたいをすゑてをくぞや    一七  9

(天理教教典第二章 たすけ一条の道 より)
 このように、明かに、鮮かに、親神を信じることが出来るよう導かれたのであるが、なお、胸のわからぬ人々の心ない反対や、世間からのとめ立てが絶えず、それ故に、ふりかかる教祖の御苦労を思うては、時としてはためらい、時としてはまどう者もあつた。教祖は、これをもどかしく思い、ざんねん、りつぷくなどの言葉で厳しく急き込む半面、

 こらほどにさねんつもりてあるけれど
 心しだいにみなたすけるで      一五 16

 いかほどにさねんつもりてあるとても
 ふんばりきりてはたらきをする    一五 17

などと、温かい親心を宣べて、常に、子供達の心の成人の上に、心を配られた。
 かくて、教祖は、口に、筆に、又、ひながたによつて、種々と手を尽し、心を配つて教え導き、陽気ぐらしへのたすけ一条の道をはじめられた。更に、深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里ぢばに名附け、又、一れつのたすけを急き込む上から、姿をかくして、存命のまま、恆に、元のやしきに留り、扉を開いて、日夜をわかたず守護され、一れつ子供の上に、尽きぬ親心をそそがれている。
 まことに、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。

 にんけんをはじめたしたるこのをやハ
 そんめゑでいるこれがまことや     八 37

(天理教教典第一章 おやさま より)
 次いで、親神を月日と称え、目のあたり天に仰ぐあの月日こそ、親神の天にての姿であると眼に示して教え、世界を隈なく照し、温みと潤いとを以て、夜となく昼となく、万物を育てる守護を説き聽かせて、一層の親しみと恵とを感じさせるよう導かれた。それと共に、

 いまゝでも月日のやしろしいかりと
 もろてあれどもいづみいたなり     六 59

 このあかいきものをなんとをもている
 なかに月日がこもりいるそや      六 63

とて、赤衣を召されたのも、教祖が月日のやしろにおわす真実を、眼に示して納得させようとの思召からである。ここに、月日親神に対する信仰と、月日のやしろたる教祖への敬慕の心とが、次第に一つとなり、教祖の言葉こそ親神の声である、との信念を堅めるようになされた。

 更に又、

 いまゝでハ月日とゆうてといたれど
 もふけふからハなまいかゑるで    一四 29

とて、それから後は、をやという言葉で、親神を表し、

 にち/\にをやのしやんとゆうものわ
 たすけるもよふばかりをもてる    一四 35

と仰せられた。人間の我が子を慈しみ育てる親心によせて、親神は、ただに、神と尊び月日と仰ぐばかりでなく、喜びも悲しみもそのままに打ち明け、すがることの出来る親身の親であると教えられた。そして、一層切実に、親神への親しみの情を与えると共に、月日のやしろたる教祖こそ、まことに一れつ人間の親である、との信頼と喜悦の心を、たかめるように導かれた。

(天理教教典第一章 おやさま より)
 又、人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のように心が濁つているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違いのほこりを、絶えず掃除するようにと諭された。
 更に又、陽気ぐらしの世界の建設を普請にたとえては、これに与る人達を、しんばしら、とうりやう、よふぼくなどと称んで、その持場々々の役割を示すなど、人々が容易に理解して、早く心の成人をするようにと心を尽された。
 このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教えると共に、いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、親神を神といい、次に月日と称え、更にをやと仰せられるなど、成人に応じ、言葉をかえて仕込まれた。
 即ち、神というては、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神などと、言葉をそえて親神の理を明かし、或は、

 たすけでもをかみきとふでいくてなし
 うかがいたてゝいくでなけれど     三 45

と仰せられ、神というも、これまでありきたりの拝み祈祷の神でなく、この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護している真実の神であると教えられた。

(天理教教典第一章 おやさま より)


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