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僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
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神様を信じて、難儀してる人さんに、神様の道を教えてあげて、この道聞いて守ってたら、何があっても大丈夫――という精神を持たしてあげる。そうすると、自分の事は放っておいても、自然に一切がいい方へ、いい方へと変わって行くのです。(赫ける神人 愛町初代会長関根豊松先生 源書房刊より)
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神様を軽くして通っておりますと、どうしよう、あれで困った、これで困ったという事になって来ます……よくここ迄までやったのに、こんなにやってきたのに――という事を聞きますが、道の信仰は制限がありません。前生、前々生から、何代か前からの因縁を納消するのですから、一代や二代で切れません。命の限り通り切っても足りません。(赫ける神人 愛町初代会長関根豊松先生 源書房刊より)
『誠一つが天の理』と言われているように、真に『誠』の心が治まれば、決して、‘八つのほこり’や‘嘘と追従’は出てきません。(^0_0^)

また、人の難儀不自由を見て、我が身を捨ててもかまわない。なんとかして、難儀不自由している人を救けさせていただきたい!!という、真実の『誠』の心こそ、親神様おやさまが望んでおられる“よふぼく”の姿なのだと、僕は悟らせていただいています。m(__)m

また、理の親さんからは、理の子にいくら難儀苦労をかけられても、それは、すべて自分自身の因縁の姿を見せていただいているのだと悟り、自分自身の因縁果たしの修行なんだ、これは、畳の上で滝行をさせていただいているのだ!!と理の子を有り難くいただき拝めるようになることが、お道の通り方なのだ!!ということを教えていただきました。(^0_0^)

ひろ
人は――いけない人程誠をかけて、真実尽くしてやりますと、絶対悪い人はありません。良くなっていい人物になります。この宇宙の天理が、そういう風に出来ておりますから、ちゃんと心通りに相手に映ります。誠をもって、真実をもって、人に尽くしておりましたら、決して難儀不自由はございません…誠一筋に通り切る精神がありましたら、何一つ悔いることはございません。(赫ける神人 愛町初代会長関根豊松先生 源書房刊より)
私は、助かれば助かる程、尚心を許しません。自分から苦を求め、自らを苦しめても人を助け、親神様の思召、御教祖親様の御心を人に取り次ぎ、人に治める道を説いています。貴方方もよくこの点を理解して、決して助かった、結構になった――と言うて、自分を許してしまってはいけません。助かる程、雛型をしっかりと通さしてもらうのが、天理教の信仰です。(赫ける神人 愛町初代会長関根豊松先生 源書房刊より)
Yahoo!の掲示板で、11月11日は、“世界平和記念日”だと教えていただきました!!ヾ(*゜▽゜)ノ

僕のところは、平和堂集談所って言いますが、まったく知らずにいましたが、僕のメインのteacupのブログは、三年前の、11月11日に始まり、今日で満三歳とならせていただきました~!!(^0_0^)

またこれからも、どうぞよろしくお願い致しま~す!!ヽ( *・∀・)ノ

ひろ
 惟うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをどりのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を明かそうと、元の理を説き、所定の人と所と時の立て合いによつて、この教を始めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念することを教えられた。
 かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示されたのも、親神の深い思わくによるものであつて、正に、教祖ひながたは、道の生命である。
 人は、先ず、身上や事情にてびきを頂き、親神を知る。そして更に、身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところを悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道すがらには、雨の日も風の日もある。しかも、その中に、日々たんのうの心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた誠真実は、自ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼくを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、魂は続々と更生されて行く。
 かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐらしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥進む。

 このみちハどふゆう事にをもうかな
 このよをさめるしんぢつのみち     六  4

(天理教教典第十章 陽気ぐらし より)
 かくて、世界一れつの心が澄みきる時、たすけ一条の思召が成就して、親神の守護は余りなく垂れ、ここに、人の世は、未だかつてない至福を受ける。これぞ、楽しみづくめの世界、神人和楽の陽気づくめの世界であり、真正の平和世界である。
 思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷いを重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたつた。それは、互に争を事とし、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるものと、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞著である。この矛盾を解き、撞著を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこそ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道である。
 世界は、平和を求めて止まない。しかし、真の平和世界は、ただ人間相互が争わぬだけで、全うされるものではない。よしや、それは争のない姿であつても、光溢れる平和の訪れではない。真の平和世界は、親神の理によつてのみ築かれる。この親神の道が、人々の胸に正しく治められ、すべてが、己が利欲を忘れ、温かい親神の守護の下、互扶けの真実の働きにつとめ合い、親神の待ち望まれる陽気づくめの世界になる時、この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

(天理教教典第十章 陽気ぐらし より)
 せかいぢうみな一れつハすみきりて
 よふきづくめにくらす事なら      七 109

 月日にもたしか心がいさむなら
 にんけんなるもみなをなし事      七 110

 このよふのせかいの心いさむなら
 月日にんけんをなじ事やで       七 111

 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。それは、親神の思召のまにまに、いそしむ日日であり、正しくきりなしぶしんである。そして、この明るい心に、自ら豊かな恵が与えられて、心は更に勇み立つ。子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。
 人々は、この親心にもたれつつ、世界中皆一れつは隔てない親神の子、兄弟姉妹という理を心に治めて、高きものも低きものも、遠きものも近きものも、相互に扶け合い、常にたゆまず、ひながたの道をたどり、陽気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむならば、やがては、全人類の心も入れ替り、世は自と立て替つてくる。

(天理教教典第十章 陽気ぐらし より)
 人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

 勝手というものは、めん/\にとつてはよいものなれど、皆の中にとつては治まる理にならん。(明治三三・一一・二〇)

 一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。
 一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集つても、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取つて頂けない。人皆、相互に一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇んで生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。

 心を合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世界に映さにゃならん。(明治三五・九・六)

 親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜びは世界にひろまつて行く。親神は、これを望ませられる。

(天理教教典第十章 陽気ぐらし より)


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