忍者ブログ
僕は、四年前にもう無い命を天理教の神様に救けていただきました。その御礼とご恩報じのひのきしんとして毎日、天理教の御教えや体験談などのブログを書かせていただいています。(このブログは、『○天理教よふぼくの集い●』のコピー日記です。)
[164] [165] [166] [167] [168] [169] [170] [171] [172] [173] [174]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

『人間というは、今日までの日はわかるであろ。明日日(あすにち)の事は分かろうまい。』(M26.05.11 おさしづ〔神様のお言葉〕)
PR
『善い事すれば善い理が回る、悪しきは悪しきの理が回る。善い事も切りがなけねば、悪しき事も切りがない。………理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返す、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。』(M25.01.13 おさしづ〔神様のお言葉〕)
1940年に、一通の形式的な手紙が「受取人死亡」と記されてAREに戻って来ました。
18年間彼は全く絶望的状態で治療面で善意のクリスチャンに完全に頼り切っていました。この経験は、ネロとして君臨したことによるカルマの多くに彼が出会い、それを克服することを可能にしたことでしょう。〔900-295〕の報告の6ページは明らかに〔33〕氏のことを述べており、こう伝えています。

「肉体的な観点からは何もたいしたことはすることはできなかった、しかしその男に与えられた情報は、他人によって彼が文盲だと考えられていたのは確かにせよ、彼の中に霊的理解のようなものを目覚めさせ、また、彼――その実体――は地上平面における経験の別の時期に於いて、人類に施した破壊のために彼に割り当てられた破壊的力を、彼の潜在意識的自己で認識するようになる。………彼は今や自分自身と向き合っていることに気が付く、そしてそれと共に彼は、創造した………」(900-925)

ですから私たちは、破壊的な思考・感情・行動に満ちた生に起因する惨状を見ることになるのです。
(『転生の教訓』 メアリー・アン・ウッドワード著 加藤整弘訳 たま出版刊より)
これら最後の言葉は若者に送られたオリジナルのリーディングには含まれていませんでした。ケイシーはしばらく彼と文通し、勧められた大きな病院の一つに行くように説得しようとしました。
そこに行けば、脊柱の部分部分を取り除き、入れ替え、ワイヤーによる再固定をし、最終的に、体は前かがみになるけれども運動は復活するというのでした。
若者は奇跡的な“癒し”を求めていたのが明らかです。なぜなら〔1928〕に於いて彼は書いています。

「あなたが病院を手配したとおっしゃってくれている手紙を受け取りました………もしあなたが私を治せるとおっしゃるのなら、あなたに1000ドル差し上げます。またもしそうでないなら、何も差し上げません。それが公正ではありませんか?」(33-1)

つづく
勧められた治療は、主にマッサージと今一度の手術でした。厳密にリーディングに従えば、最終的に(前かがみの姿勢ではあるが)体の運動機能を持てるだろう、と彼は告げられました。リーディングの終わりは次のようなものでした。

「最善の発展を築くような状態に心性全体を保て、というのも、見てきた通り、こうした状態の多くは体の心的力及び霊的力の作用による報いとして受けとるものだからだ。だから最初に与えられた通りなのだ。見るがよい、これはネロだ。」(33-1)

最後の分は、ほとんど聞こえない小声で述べられました。

つづく
「さて、現在の肉体平面を通っているこの実体の経験は、地上の経験をくぐりぬけている発展途上の実体として見ると、肉体的状態よりも興味深い、というのはこれらは、助力や救済はもたらされるかもしれない一方で、疲れを知らぬエネルギー、骨折り、忍耐、そして根気によるのでなければ、体の通常の力をもたらすという点では、ほとんど何もできることはない、という性質のものだからだ。というのも、頚椎と第一脊椎に、脊椎の間の軟骨性の力の一部が押し潰されたという状態が過去に於いて存在していたことを見出だすのである。エネルギーの流れをそらしたり、ふせいだりするよう状態をもたらすくらいで、脊髄を直接傷つけるには不十分である。」(33-1)

つづく
1926年に二十四歳の若者が、車が壊れたため首から下が麻痺している、と言ってリーディングを求めました。それまで三回手術をしましたが救いにはなりませんでした。明らかに難点一部が見つからなかったのです。
ケイシーはこの若者に肉体的リーディングを与えましたが、それが語るには、

つづく
すなわち、現在の人生において何らかの身体的な障害を持っている人達は、たとえそれが前生のカルマによるものであったとしても、それを背負うことを神に許されるほど、精神的にも霊的にも成長した魂であるということのようです。

また、エドガー・ケイシーは言います。そのハンディキャップを背負った人の両親にも同じことが言えると。
なぜなら、「宇宙は、高貴な魂を育てる役目を信頼して任せたのだと。そして、あなた達は、この暗い世の中において、人々に多くのものを与えるであろう偉大な魂の養育を任されたのだと………。」

(眠れる予言者エドガー・ケイシー 光田 秀著総合法令出版刊より)
それゆえに、今生では半身不随となり、その時に、なんのためらいもなく捕らえれたキリスト教徒を苦しめ嘲り笑ったという、嘲笑のカルマが原因だったそうです。

ここまで読まれて皆さんは、なんか不思議に思わないでしょうか?どうして、直前の前生ではなく、もう一つ前の前生のカルマが今生において出てきたのかを………。

なぜこのカルマ(いんねん)の話を書いたかと言いますと、大きな理由があるからです。

エドガー・ケイシーが語るのには、ローマの直後の人生にこのカルマが出てきていたとしたら、その重荷に耐えることができなかったからだと。それで、次の人生では、そのカルマの重荷に耐え、償うことができるだけの精神力を鍛えることに費やされたのだと………。

エドガー・ケイシーは言います。「たとえあなたがその重荷を引き受けて償おうとしたとしても、神は、それを許したまわないと………。」

魂が、それを背負い償い切れるまで成長していない場合は、カルマの負債は延期される場合があるようなのです。

つづく
以前にも、少しだけ書かせていただいていましたが、毎日とはいかないと思いますが、エドガー・ケイシーが語るカルマ(いんねん)について書かせていただきたいと思います。(^0_0^)

15才の時に交通事故にあって、それ以来ずっと車椅子で生活しなければならなくなった人のライフリーディングです。

彼は、直前の前生では、アメリカ独立戦争の時に兵士として戦い、その時の人生では、困難な状況に遭遇しても、それを快活さと忍耐をもって最善の形で克服する能力を培ったと評価されました。それによって彼は、精神的にも霊的にも成長することができたようです。
彼が半身不随というハンディキャップを背負うことになった理由は、それよりもう一つ前の前生にありました。
リーディングは語ります。それは、初期キリスト教時代のローマで彼が作ってしまったカルマにありました。彼が捕らえれたキリスト教徒と闘技場で戦うことを楽しみとし、何の抵抗も示さずに屈してしまう人々に嘲笑を浴びせていたのだそうです。

つづく


忍者ブログ [PR]
最新コメント
プロフィール
HN:
ひろ
性別:
非公開
フリーエリア